- 2008-01-22
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この楽曲はハリウッド映画「SAW4」のタイアップ曲として製作され、全世界上映の映画でもあることからX JAPANにとって悲願の世界デビュー曲となっている。
2008年1月23日からiTunes Storeで配信が開始される。
「2000年再結成」までの間、各メンバーはソロ活動を展開する。中でもHIDEは、hide with Spread Beaver名義で精力的に活動を始めた。その矢先、1998年5月にHIDEは急死してしまう。これにより、2000年のX JAPAN再結成は幻となった。
HIDEの死は、X JAPANというバンドを解散早々伝説化させる要因になった。また、以降も「ART OF LIFE」や「THE LAST LIVE」などのライブ盤やDVD、インターネット上での投票によるベスト盤リリース、全国主要都市や韓国・ソウルでのFILM GIG開催などが続いた。
さらに、HIDEと同郷であり、hide MUSEUMの建設にも関わった小泉純一郎首相が「X JAPANのファン」と公言し話題を呼び、「Forever Love」が自民党の国政選挙の際にCFで使われた。
1997年4月、音楽性・方向性の違いによりTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。
その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE〜最後の夜〜」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。
テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。
この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。
一時期ヘルプとしてXに参加していたTAIJIが1986年の年末に正式に加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。
その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。
出口の見えない「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始されてしまう。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1〜2週間に1個所で2daysという緩い日程だった。にもかかわらず翌1995年12月、仙台公演2daysが中止。翌1996年3月14日、名古屋公演2日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。
実に(福岡の延期を除く)18公演中、7公演が中止という、悪夢としか言いようが無いものになってしまった。特に福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止というありさまであった。
テレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布した。
この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなど本気とも冗談とも取れるアイデアが出たという。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた。(他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていたらしい。)
当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。
しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。ただ、こうした批判にはXに対する彼等のやっかみがあったともされる。
実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前。ライブ中の毎回、ガソリン注いでシンバル燃やす、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。
当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング(嘲笑い)の対象になった。
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。
YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。
高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。
YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。
幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。
金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。
幼少の頃からの友人だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「KISS」の話をするような子供であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「NOISE」を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカルが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカルになった。
地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。
YOSHIKI(ヨシキ、1965年11月20日 -)ドラム&ピアノ、プロデューサー (リーダー)
TOSHI(トシ、1965年10月10日 -)ヴォーカル
HIDE(ヒデ、1964年12月13日 - 1998年5月2日)ギター&コーラス
PATA(パタ、1965年11月4日 -)ギター
TAIJI(タイジ、1966年7月12日 -)ベース(1992年1月の東京ドーム3daysをもって脱退)
HEATH(ヒース、1968年1月22日 -)ベース(TAIJI脱退後加入)
以上は1987年以降のX、1992年からのX JAPANメンバーである。
Xのアマチュア(インディーズ)時代にはメジャーデビューするメンバーに固まるまで度々メンバーチェンジが行われていたために、「元X」の経歴を持つミュージシャンは数多く存在する。
「ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、ロック界のみならず日本の音楽業界、J-POPにおいても様々な意味で多大なる影響を与えたバンドである。
Xというバンド名は当初「正式なバンド名が決まるまでの、仮の名前」であった。「1文字だと、コンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちだったという。当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。
X JAPAN(エックス ジャパン)は日本の代表的なロックバンド。
1989年にXとしてメジャーデビュー、1992年にX JAPANへと改名。通称としてX(エックス)とも呼ばれる。
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